商業史レポートA「越後屋・三井八郎兵衛高利」


6.越後屋の躍進


【越後屋開店】

 1673年、高利は再び江戸へ出て、呉服店「越後屋」を開店した。場所は江戸本町一丁目、現在の日本銀行新館の辺りである。祖父の名が三井越後守高安であったことから、「越後」を屋号とした(後に三井の「三」と越後屋の「越」の字から「三越」と名付けられた)。
 高利は、間口九尺の仮店舗で、江戸での事業を再開させる。松坂で金融業も続けながら、江戸店の経営をこなし、京の室町薬師町に仕入店も設けた。
 越後屋開店と同時に、高利は、「店前現銀無掛値」と「小裂何程にても売ります」、つまり、店頭販売と切り売りを始めた。これは、当時の商慣習を打ち破るやり方であった。いわゆる大店では、得意先が、裕福な商家か大名や武士といった特権階級に限られていたため、現金扱いの小売りは行われていなかったからである。見本を持って得意先を回る「見世物商い」や、品物を直接得意先に持ち込む「屋敷売り」が、当時の一般的な商売の方法であり、また、支払い方法は、盆と暮れの節季払いという掛け売り方式が、当たり前となっていた。
 しかし高利は、店頭での現金販売により商品を安く提供(掛け値なしの正札で販売)し、一反単位での販売しか行われていなかった反物を、必要な長さだけでも売ることとした。この「店前現銀無掛値」と「小裂何程にても売ります」は特に江戸町民の間で大当たりして、越後屋は急成長を遂げた。また、地方の商人に越後屋の品物を扱わせるための卸売業や、両替業なども初め、高利は江戸の豪商となっていった。
 この、越後屋の新商法と繁栄する様子は、井原西鶴の「日本永代蔵」の中で、元禄時代の町人の生活とともに生き生きと描かれている。高利の新商法は呉服店の在り方を変えることとなり、当時の都市社会で勃興しつつあった「町人」を対象に商売をすることで、商店は新たな文化を生み出す場へと変わっていった。


【為替の発案】

 呉服店「越後屋」の開店から十年後の天和(1683)三年に、高利は両替店を開設し、貞享三(1686)年には、本拠を松坂から京都に移して両替店を併置した。
 その当時、幕府も江戸の商人も、京都や大阪の商人と取引きするにあたり、商品の代金を現金で輸送していた。しかし、現金の輸送はリスクもコストも高いため、高利は幕府に為替の利用を献策したのである。貞享四(1687)年、牧野成貞の推挙により、高利は将軍家の服飾等の調達を行う幕府御納戸御用達に取り立てられ、元禄二(1689)年には、元方御納戸御用達を命ぜられた。さらに、元禄四年、幕府の大坂御金蔵銀御為替御用を請け負う。これは、幕府の上方と江戸間の公金輸送を為替で行なう業務で、幕府の大量の公金を無利息で運用しうるものであったため、高利は莫大な利益を得ることとなった。
 元禄七(1694)年五月六日、高利は七十三歳で死去する。彼一代で、三井家は当代屈指の豪商となり、高利は後に、三井財閥の祖と称されるようになった。その遺産は、彼個人のものだけで約四千九百貫(金八万両相当)であったと言われている。


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