商業史レポートA「越後屋・三井八郎兵衛高利」


5.越後屋前史A


【釘抜越後屋での活躍】

 寛永十二(1635)年、十四歳で江戸に出た高利は、長兄・三郎左衛門俊次の江戸店で、手代奉公をすることとなった。勝手仕事をしながら、屑野菜を利用して経費を削減したり、二百両盗難事件を解決するなどして、その才覚を徐々に発揮していく。寛永十六年、次兄が帰郷すると、高利は江戸の三店舗の経営を任されるようになった。
 店を任された高利は、奥筋商人に松阪木綿を格安で卸すなど、新規顧客の獲得や販路の拡大に大いに手腕を奮った。また、武家への取立ても巧みであり、その商才を存分に発揮して、経営を拡大していった。最初は元金百貫目ほどであった店の資産を、十年でおよそ千五百貫目(約二万五千両)にまで増やし、また、自らも四千両の資産を蓄えたとされる。
 やがて、独立を望んだ高利だが、兄俊次の猛反対を受け、松坂に帰郷を余儀なくされることとなった。異腹の長兄が、高利の才覚を妬み、江戸から追い出したと言われている。そして高利は、松阪で長い雌伏の時を過ごすこととなった。


【松阪での雌伏】

 失意の中で帰郷することとなった高利は、母、珠法の強い勧めで、中川清右衛門の娘かねと結婚する。やがて家業を継ぎ、松坂で主に金融業を営むこととなった。
 高利は、松坂でもその商才を発揮し、領主である紀伊徳川家を筆頭に、津の藤堂家、肥後の細川家などへの大名貸しや、近隣農民への郷貸しも積極的に行った。大名への融資では、複数の出資者から資金を募り、出資額に応じて利子を分配する分貸しにより、リスクを分散する方式を取り入れた。また、農村への融資の際には、庄屋などの村役人を保証人として安全性を確保したり、金を貸して米で返してもらう米貸しなどの手法を用い、徹底してリスクを回避することにより、事業を拡大していった。
 そうして、松坂で力を蓄えてながら、高利は、長男・高平、次男・高富、三男・高治、手代・徳右衛門を、兄俊次の店に次々に奉公に出し、江戸出店への機会をうかがった。この松阪での雌伏の時代が、後年の爆発的な活躍の準備期間となったのかもしれない。そして、兄俊次が亡くなり、高利はいよいよ江戸へ再進出することとなる。


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