商業史レポートA「越後屋・三井八郎兵衛高利」


4.越後屋前史@


【武士から商人へ】

 平安時代に権勢を誇った藤原北家の流れを汲む藤原信生が、近江に地方官として赴任後、土着して武士となり「三井」を名乗ったのが、三井姓の始まりと言われている。信生から十二代目の三井備中守高久の頃より、三井家では代々、名前に「高」の字が付けられるようになった。
 三井家は、近江の領主、六角氏に仕えていた。しかし、1568年、近江の国は天下統一を目指していた織田信長の侵攻を受ける。領主六角氏は逃亡。主君を失った三井家は流浪を余儀なくされ、当時の三井家の当主・三井越後守高安は、松坂近くの松ケ島で没したと伝えられている。
 その後、高安の長男、三井則兵衛高俊が、当時の商業の中心地であった松坂で、質業と、酒、味噌、醤油を商う店を構えた。その店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、大変繁盛したと言われている。高俊は、松坂に近い丹生の豪商・永井左兵衛の息女を妻に迎え、四男四女を儲けた。その末の男子が、後の三井八郎兵衛高利である。
 なぜ、高俊は商人となったのか。戦国動乱の世が終わり、商業が社会の基礎となることを見抜いていたのかもしれない。また、妻の殊法の強い勧めを聞き入れて商人となった、などとも伝えられている。


【母の薫陶】

 高安が越後守であったことから、高俊の店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、親しまれた。この店を実際に切り盛りしていたのは、後に高利を産むこととなる、高俊の妻、殊法である。殊法は、三井の商売の祖とされる、大変才覚に富んだ女性であった。古わら・古わらじを拾い集めては、それを藁すさにする。使い捨てた元結を観世こよりに、底の抜けたすり鉢を桶受けに、柄杓の底抜けを急須の尻敷きにする。そうした、厳格とも言える倹約家であったと言われている、また、店先で湯漬けを振舞ったり、早朝商いで安売りをしたり、細かく値を調べて出来得るかぎり安く仕入れを行ったりするなど、商いの方法も様々に工夫をこらす経営者でもあった。
 高利はそうした母のもとに生まれ、その薫陶を受けて育った。高利が十二歳になった折には、殊法から銭四貫文を渡され、梅味噌の行商をさせられている。早くから商いを身をもって学ばせ、商売の基礎を分からせようとしたのだろう。そして、十四歳になると、高利は江戸へ出て、長兄の店、釘抜越後屋を手伝うこととなった。


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